あゆみ 2015年1月号
神様「ありがとう」
昨年10月の黙想会で指導司祭から「想い出の祈り」について、自分の現在までの歩みの中で一番よかったことを想い出し、そのリストを作って祈りの中でかみしめて味わうよう問題提起がありました。よかったことを想い出すにつれ、神様のみ摂理の深さを感じました。
リスト1は、5人の仲間との想い出です。小学校3年生の時、わたしは他の4人と一緒に初めてごミサの侍者をつとめることになり、5人はつとめを通して親しい友達になり、特に夏休み等はピクニックやハイキングに出かけるまでになりました。中学生になると、郵便局の忙しいクリスマスとお正月は、5人の仲間と自転車で電報配達をしました。卒業後はそれぞれ違う高等学校でしたが、夏休みには5人の仲間とともに出会いを楽しみました。現在2人は亡くなり、他の2人とは、ニュージーランドに帰ると必ず会います。「誠実な友は、賢固な避難所。その友を見出せば、宝を見つけたも同然だ」(シラ書614)
黙想会の祈りの中のリスト1の友との友情は神様からの恵みのプレゼントでした。信仰の道も、人生の道も友人と共に歩いた若いときの想い出は、神様に心から「ありがとう」。
リスト2では、司祭叙階8人の同級生の中で、総長様がわたしだけに「日本に行きなさい」と言われたのでがくぜんとしました。その理由は2つ、外国語が苦手ということと7年間の神学校の後東京の日本語学校で更に2年間の勉強を続けるのは苦しいなと感じたことです。予想に反して日本では新しい友に恵まれ、彼等の励ましが、わたしを支えてくれました。2年が終わったその翌日、和歌山へ派遣されました。(1959年)今から55年前の和歌山は田舎でした。ここで、日本の歴史、伝統、文化、又田舎の習慣、祭り等について多くのことを学び、それが今もたいへん役立っています。人と人との出会いの場を下さった神様に「ありがとう」です。
又、信者でない人とも大勢出会いました。串本では「手を振る神父」とあだ名がついておりました。バイクであちらこちらに行ってはいつも手を振っていたからです。田舎の人達は生活に追われ、この人生にいったいどういう意味があるのだろうかと自問自答しておりました。わたしは幼児洗礼でしたので、自分の信仰は当たり前だと思っていましたが、和歌山の人達との出会いで自分にいただいた信仰の偉大さを理解するようになりました。
イエスさまの道のお陰で、意義のある生活が送れていることを神様に心底から「ありがとうございます」。
わたしはキリスト教講座の中で、遠藤周作さんの「イエスの生涯」をよく使います。同伴者としてのイエス様の生きている声「わたしはあなたを友と呼ぶ」という言葉はわたしの心の中へこだまとなって響きます。
「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」は自分にとって大きな支えと励ましです。日本の皆さん「ありがとうございます」
イエス様「ありがとうございます」
心のこもった「ありがとう」は世界で一番きれいな言葉です。
新年を祝う

すべてを新たにする神よ、
いま新しい年が恵まれたことを感謝し、
心をこめてあなたをたたえます。
あなたがとうとばれ、あなたの国が栄えますように。
今年もわたしたちに必要な糧をゆたかに恵み、
病気や災害などの禍いを遠ざけてください。
思いやり深く人をゆるすことができるように、
わたしの心を新たにし、
信仰に生きる喜びをいつも味あわせてください。