あゆみ 2015年5月号
バリー・ケンズ神父
私は、3週間前に長崎歴史博物館の「聖母が見守った奇跡」と書いてある興味深いチラシを見ました。

天草崎津の主任司祭のころから潜伏クルスチャンの時代に興味を持っていたからです。その展覧会に神戸市立博物館の南蛮美術のある絵が出展されていました。
それは、1623年頃の聖フランシスコ・ザヴィエルの絵です。
私は、55年前に東京の画家にその絵を写して欲しいと頼みました、すると彼女は絹の上にその絵を描きました(あゆみの表紙)今もわたしの部屋にかかっています。
本物について一説は、画家はイエズス会同宿 (伝道師)で天草崎津河浦のコレジオで南蛮の絵の描き方を習った日本人が描いたといわれています。
私は4月7日火曜日から9日木曜日まで長崎に行って来ました。
特別な祈りと巡礼の3日間になりました。
1日目は、長崎歴史博物館に行きザヴィエルの絵の前に立って長く祈りました。ザヴィエルの口から出ている言葉
SatisestDominesatisest (主よ、十分です、十分です)
これは、イエズス会の聖イグナチオがよくつかう祈りの最後の行です
「主よ、私の存在、私のすべては、あなたから頂いたものです。すべてお返ししてささげます、ただあなたの愛を私に与えて下さい。それだけで十分です十分です」

同じ展覧会に昔の踏み絵もありました。
真鍮に十字架上のイエスが彫られています。それは大勢の人の足で踏まれ薄くなっていました。
私は潜伏クリスチャンの苦しみを想い大変辛い気持ちになりました。
踏み絵の写しも私の部屋にかかっています。
2日目は、大浦天主堂に行ってマリア像の前で祈りました。
ちょうど150年前迫害がまだ厳しい頃、浦上の信者がプチジャン神父に「私達もあなたと同じ心を持っています」と言って幼いイエス様を抱いたマリア像を見て喜びました。私は祈りの中でマリア様に現代の日本の信者たちを導いてくださいと祈りました。大浦から永井隆の如己堂と記念館に行きました。
長年、私は永井博士の大ファンで布教と世界平和のための大きな励ましになりました。私にとって永井博士と奥さんみどりさんは 100%クリスチャン! 100%日本人! また平和の道具です。
二人とも悲しい出来事にぶつかりました。たとえば4人の子供の中で2人は生れてすぐと2歳になる前に亡くなりました。
戦争中、医者としてレントゲンを1日で平均100枚も映していたせいで白血病にかかりました。彼は医者から余命3か月の宣告を受け、奥さんにその事を伝えました。
二人とも非常に悲しみましたが、二人には、強い信仰がありました。
けれど、長崎に原子爆弾が投下され永井博士は怪我をしました、家に帰ると何も残っていません。台所に奥さんのロザリオが1つの固まりになって、そばには奥さんの骨の残りがありました。永井博士は深い悲しみの中にも強い信仰と希望がありました。
原爆の後、博士は6畳の小屋で2人の子供と暮らしていました。
私は記念館でもう一度ビデオを観て印象に残ったことは 娘の茅乃が寝ているお父さんの腕をマッサージしているところでした。
永井博士の孫の徳三郎さんにあたたかいもてなしを受けました。
別の機会に「あゆみ」で永井博士の記事を書きたいです。
3日目、駅前の西坂26殉教者記念館に行きました。
その26人の中で私にとって特別な2人は、大工のミカエル小崎と息子で15歳だったトマス小崎です。この2人についても別の「あゆみ」で記事を書くつもりです。