広報誌あゆみ 2017年3月号
バリー・ケンズ
50年前に、和歌山県の龍神という村で、私は年取った医者の大島先生の最後の病気の間に、お見舞いに行きました。彼は布団の中で十字架象をしっかりと握って、その十字架像をじっと見つめていました。本当の無言の祈りでした。イエス様は彼の苦しみと一緒でした。彼のためにはこれは大きな励ましと慰めと希望でした。その時に、大島先生のおかげで私は十字架像に特別な深い感銘を受けました。
カトリック教会の伝統ですが、十字架像の場合、ただの十字架の木だけではなく、十字架の上にイエス様の体全体の像がついています。また、より古い昔の伝統の中で二つの種類の十字架像がありました。第一の「イラストA」には十字架の木の上でいばらの冠をかぶって苦しんでいるイエス様全体の像があります。私たちはこれを見つめるとイエス様の復活の情景を思い出します。第二の「イラストB」には十字架の木の上で栄光の冠をかぶっている復活されたイエス様の全体の像があります。私たちはこれを見つめるとイエス様の苦しみの情景を思い出します。ですから、苦しみの十字架と栄光の十字架とを分けることはできません。二つとも一緒です。


私は苦しんでいるイエス様の像が好きですが、人によって違います。時々教会に初めて来る人は苦しんでいるイエス様の十字架を見て、残酷で嫌な感じがするという反応を示します。本当に残酷な苦しみの場面です。けれども私たち信者は、イエス様の十字架の生命の犠牲の意味を知って、その苦しみの裏の愛を思い出します。十字架は私たちに対するイエス様の愛の証明です。私たちはその愛を思い出し十字架像を使いましょう。