広報誌あゆみ 2017年10月号
バリー・ケンズ
パウロのことば
「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分自身を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。
(フィリピの教会への手紙 2章 6節)」
イエス様は私たちの道の模範です。
私たちも自分自身を無にしなければなりません。
それは、自分を中心にしないで、人に席を譲ることです。
イエス様は「私は道である」と言い、聖テレジアはその道の歩み方の具体的な模範を示しています。聖テレジアは私たちのために彼女の小さな道を描きます。
小さな道とは、有名な聖人の道ではなく、勇気のある人の道でも、性格の強い人のためでもなく、結局、一般的、平凡な私たちのための道です。
では、自分自身を無にすることの具体的な例を考えましょう。
第1の例
修道院に入る前、テレジアは自分の家にお手伝いさんがいましたから、家の掃除や洗濯の経験がありませんでした。修道院に入ってから、不器用なやりかたでその仕事をしたので
あるシスターは皮肉な声で、皆に聞こえるように「この15歳の子どものシスター! いったいどういう人でしょうか!」と言いました。テレジアは皮肉を受け止め、反感を持たずに、自分自身を無にして受け入れました。
第2の例
テレジアは24人のシスターの中で一番若く、一番最近修道院に入ったシスターでした。
食堂の料理担当のシスターは、不味い残り物や一番おいしくない部分をテレジアに出しました。テレジアは出されたものを謙遜に食べ、何も言わずイエスのように自分を無にして喜んで受け入れました。
第3の例
聖堂で祈るとき、テレジアのすぐ後ろの席 (跪き台) に座っていた年寄りのシスターには歯ぎしりをする癖がありました。テレジアは歯ぎしりの音を聞くととても緊張しました。しかしテレジアは、耐えられないその癖を自分自身を無にして受け入れ、廊下ですれ違う時、そのシスターに微笑みかけました。
第4の例
テレジアは修道院長から新しく入ったシスターの修練の責任を任されました。けれども院長はテレジアに「修長」の名前は与えませんでした。院長は権力が好きでしたから、その名誉ある名前を自分のものにしたかったのです。テレジアは席を譲って、自分自身を無にして、新しく入ったシスターの立派な指導者になりました。
私たちも、身分に応じてテレジアの行いを考え、テレジアの模範に倣いましょう。
新子安教会の皆さん、聖テレジアは私たちの共同体の保護の聖人ですから彼女の「小さな道」の足跡をたどりましょう。
