広報誌あゆみ 2017年12月号
司祭 バリー・ケンズ
皆さん、次のたとえ話の教えについて考えましょう。
ある夜、1隻の船が太平洋の真ん中で酷い嵐に遭い難破してしまいました。
乗組員の1人だけ浮かんでいる帆柱につかまり小さな島に流れ着きました。その島は他の陸から遠く離れていたため人間は誰も暮らしていませんでした。


その男は、はじめは誰か救助に来てくれるのではないかと思っていましたが誰も来なかった。
彼は、その状態を受け入れて島の中に泉を探しみつけ、山の野菜やヤシの木も見つけました。2本の渇いた枝をこすって炎もつくりました。
そして小屋をつくり、畑も作り、釣り竿や自分の楽しみのため竹で小さな笛も作りました。こうして物質的には豊かになりましたが心は何か物足りなかった。大きな空白を感じていました。そんなある夜、無性に寂しくて涼しい風にあたろうと島の山に登りました。頂上に着くと麓に大きな火事を見ました。
急いで降りていくと自分の作った小屋も釣り竿も笛も畑も全部焼けてしまいました。
ほとんど全滅でした。彼は非常に落ち込んで失望しました。
神様に対しても反感でした。
「神よ、私は救助を願い祈った、しかし誰も来なかった。また、この火事は・・・どうして? どうして? 」彼は火事のショックと怒りで疲れ果て海岸に倒れ深い眠りに入りました。

その翌日、ある船から島に来た船員が海岸で眠っている
男を揺さぶり起こしました。
彼は、びっくり半分、喜び半分で「長い間、誰も来なかったのにどうしてあなたは、ここへ来たのですか?」
船員は答えました。「私の船の船長が甲板から、遠くに見えるあなたのノロシをみつけて私を遣わしました。」
皆さん、わたしたちは物質的に豊かですが、よく考えてみると心はさびしい島で一人ぼっちです。慈しみ深い父なる神は、わたしたち一人ひとりを救うために御子イエスをお遣わしになりました。
ここまでの文章を読んでいる人は、ここで5分間の静かな一服です。このことを考えましょう。「もし信仰の恵みを受け入れてなかったら、もしイエスに出会っていなかったら今の生活は、どうでしょうか?」
5分間の静かな一服