広報誌あゆみ 2018年1月号
バリー・ケンズ 神父
皆さんに私はたびたび今まで次のような話をしたことを、覚えていらっしゃると思います。
福音の中のイエス様の話や出来事は、2000年前の話や出来事ではなくて、現代の私たちのために生きている出来事とお話です。たとえば日曜日の福音を読むとイエス様は弟子たちにおおせられたという言葉が沢山でてきます。それは現代の私たちにおおせられたことなのです。ですからイエス様は弟子たちに「貴方は私を誰だと思うのか」とおっしゃっていますが、今日の私たちにもイエス様は同じようなことをおしっやっています。
私たちは、イエス様に向かって祈ります。イエス様のはっきりしたイメージがなければ、私たちの祈り相手イエス様は、曖昧なぼやけたものになります。
勿論、祈りも生きていないものになります。私たちは一人一人自分の性格や心によって、自分のイエス様の姿を描かなければなりません。描くというのは、イエス様の外形や顔よりも、心と性格を描くことが大切です。心を描くためには、聖書の福音を使わなければなりません。それによってイエス様御自身の教えられた道、目標が生き生きしているものになり、信仰の喜びを味わえるものとなります。
私のイエス様を描いた絵は、皆さんの助けになるのかどうか解りませんが、わたしは哀しみにみちイエス様が好きです。例えば一人息子を亡くして悲しさ 寂しさに沈んだお母さんや、屋根から下ろされた中風者に対する哀れみ、道端の目の不自由な貧しい人や、失敗の多いペトロに対する哀れみは、大好きです。けれども同時に怒ったイエス様、貧しい人、弱い立場の人を圧迫するその時代のサラ金業者を、神殿から追い出したイエス様も好きです。十字架の道行の主イエス、私たちを愛してこの苦しみを受けられたイエス様は、私の心をうつほど好きです。
結局 私は、イエス様は神でありますが、人間的なイエス様が好きなのです。その人間的なイエス様は、私にとって近付きやすいイエス様なのです。そして、その人間性を通して、神様に近付くことが出来ます。
このイエス様の絵を描くために、私は聖書を使いましたが、遠藤周作の「私のイエス」と「イェスの生涯」の二冊の本が、役にたちました。私は、遠藤周作の説に全部賛成ではないけれども、その賛成ではないところは、私にとって考えさせられ刺激になります。
これは遠藤周作の上手な目的なのかも知れません。
私たちは誰でも、遠藤周作と同じように「私のイエス」を描かなけばなりません。
最後にオーストラリアのシドニーで、私が洗礼を授けた人について話したいと思います。
彼の名前は吉村道三さんです。洗礼を受けてから2年たって吉村さんと私は、好きな鰻を食べながら、一緒に食事をしました。ちょうど食事中に日本から着いたばかりのお客様が仲間に入りました。その人は非常に熱心でした。私たちはいろんな事について話しました。一つの話は、遠藤周作の本のことでした。そのお客様は「遠藤周作は悪魔の道具です」ときびしい言葉をのべました。吉村さんは、ちょっと静かに考えて答えました。
「私は遠藤周作は好きです。私のために、遠藤周作の本、特に沈黙は私の心にメッセージを伝えてくれています。というのは、私は百パーセント、キリスト信者であると同時に百パーセント日本人であるということです。」と話しました。ミカエル吉村道三さんは、2年後になくなりました。道三さんの死の時イエス様は、側にいられ 力づけと慰めと、希望を与えてくださって、生きている声で、
恐れるな私は貴方と ともにいる。疲れた貴方、重荷を負っている あなた、ぜひ私のもとに来なさい。休ませてあげよう。
とイエス様はおっしゃるのです。皆さん生きているイエスの声をきいていますか?.
貴方の祈りの相手、イエス様を、貴方はどのように描くでしょうか。皆さんの心の中で、イエス様を、描いてみて、祈りましょう。

内側から
ハヤット 神父

弟子の一人が感嘆の面持ちで見ている前で、一心不乱の画家が、大きな絵に最後の筆を加えている。青年は、年老いた画家の筆さばきの見事さを、驚きの目で見ていた。
絵には、石造りの邸宅の入口が描かれている。扉はがんじょうな木材で作られ、丈夫な金属のちょうつがいで建物にとりつけてある。絵筆は、堅固な建物を描き出していた。戸口のところまで道が続いている。道の片側には、細かなタッチで花が描いてある。反対側には、トゲのある木の茂みがあった。
扉の前には、一人の男が立っていた。彼は、長くゆるやかな白いローブを着て、右手は扉をたたく高さにある。
花は人生の喜びと美しさを現わし、トゲは苦しみを示す。扉は人間の心を象徴し、扉を叩く人はキリスト、つまり救い主である。
青年は一心に見ていた。彼の目は、キャンバスの上を眺めまわしていたが、突然ある個所で止まった。先生は間違ったのか? と彼は思った。「ドアをあける把手がありませんが…」
「その通りだよ」と画家は答えた。「把手はいらない。キリストがノックすると、ドアは内から開けられるはずだ。キリストは招き入れられるべきなんだよ」
人はだれでも、自分の心の支配者である。心を開こうとひらくまいと自由である。神はこの人間の自由を尊重するところから、無理に人の心に押し入ろうとはしない。招かれた所だけに入る。扉は内側から開かれるべきなのである。

「心のともしび」から 掲載の許可を得ています