弱さの中にカ

私はニュージーランドの LowerHutt に生まれ、その町の聖ペトロと聖パウロの保護の上に建てられた小教区で幼児洗礼、堅信、叙階の秘跡を受けました。
小学生の時は、その教会の中にある御像を仰ぎ見ていました。右側は、聖ペトロ、優しいおじいさんのようでした。左側の聖パウロは片手に刀ともう片方の手に本を持っていて私の目には、ちょっと厳しい感じに見えました。
また、パウロの聖書の朗読を聞いて難しいと思った。けれど私は若い司祭の時に光の回心を経験しました。私が助任司祭の頃、ある教会の厳しい主任司祭が国に帰るため見送られるとき、そこの信者は形式的な ByeBye だけでした。しかし、別の教会で優しい主任司祭の見送りの時は大勢の信者が集まって涙を流しました。その場面を見た時、私は使徒言行録の中のエフェソ教会でのパウロの見送りを思い出しました。
「パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した」(使徒言行録 20・36~37)
その経験のおかげでパウロに対する偏見の壁が壊されました。新しい心をもって聖霊の息吹を頼んでもう一度パウロの手紙を読みました。もちろん、分かりにくいところもよくありました。私は聖ペトロの手紙に同感です。
「その手紙には難しく理解しにくい箇所がある」(ペトロの手紙 二 3・16) けれど、分かりやすいところ、響きのあるところを選んで大事にしましょう。

パウロの特徴は自分の人間的な弱さをしみじみと感じてイエスの助けと力に頼ることです。わたしたちのため、その事は非常に励ましになると思います。わたしたちは人生の道を歩むためにいつも同伴者であるイエスの助けと力に頼りましょう。イエスは最後の晩餐でわたしたちに次のように言われました。
「私を離れては、あなたは何もできない」(ヨハネ 14・5)
パウロは、その教えを心に入れて次のように書きました。
「わたしを強めてくださる方のおかげで、わたしはすべてが可能です。」(フィリピの信徒への手紙 4・13)
また、「主はわたしのそばにいて、カづけてくださいました。」(テモテへの手紙 二 4・17)そして「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(エフェソ 6・10)
コリントの教会の信者たちは自分の教会の創立者パウロは強い人、完璧な人、誘惑の経験のない人だと思っていました。パウロはコリントの信者を深く愛して自分の本当の心を謙遜に正直にあらわし、次のように書きました。
(コリントの信徒への手紙 二 12・1~10)
コリントの皆さん私はただ普通の弱い人間です。私の心に重い弱さがあります。その弱さは鋭いとげのようです。私は何回もイエスに頼んだ
「イエスよ、わたしはこの弱さを嫌います。このうるさいトゲを抜き取ってください」と。
イエスはパウロに答えました
「力は十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙 二 12・9)
パウロは、その経験について次のように書きました。
イエスからの力をもって
「わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリントの信徒への手紙 二 12・10)

パウロの弱さ、そのトゲは何でしょう ?
古代教会から現代まで聖書学者たちは色々な解釈で説明しています。
例えばパウロの弱さとトゲは身体の問題ではないか、時々高熱を出していたマラリアか、目が弱くて目まいがあった、てんかんの発作、ひどい頭痛、またはリウマチ、どもりがあったのでは・・・ またある学者はパウロの容姿について背が低くて頭は剥げていて見苦しかった。他には精神的な問題でうつ病、貞潔に対する誘惑、自分の使命に対する疑いなどなど。
パウロは手紙を書くと聖霊の息吹の掲示を受けました。聖書はそのパウロのトゲがなんであったかをはっきり伝えてくれません。これは聖霊がそのトゲをはっきり表したくなかったからです。なぜかと言うと、もしパウロのトゲが先ほどあげたリストのようにはっきりしてしまうとそのようなトゲをもっていない人にはその聖書の言葉がその人の心の中でピンとこなくて響かないのです。しかし、わたしたち弱い人間ひとり残らず皆何かのトゲをもっています。それは人によって違います。
大事だからもう一度、わたしたちは何かの弱さ、何かのトゲをもっています。自分の特別なトゲは何でしょう?

わたしたちもパウロのようにそのトゲをとおして優しいイエスに出会うことが出来ます。イエスは喜んで助けと力を与えてくださいます。わたしたちは皆、パウロと一緒に言うことが出来ます
「わたしは弱いときこそ強いからです」(コリントの信徒への手紙 二 12・10)
逆説的に聞こえるかもしれませんが弱さの中にこそ助けでありカがあるのです。イエスのところへ大胆に近づきましょう!
パウロは最後に年を取ってローマの牢獄で自分はもうじき死ぬことを考えてキリストと共に今までの人生を反省しました。
それはオリンピックのように
「世を去る時が近づいてきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、偽の栄冠を受けるばかりです。」(テモテへの手紙 二 4・6)

わたしたち平凡な人のために人生のメッセージは次のようです。
イエスの道を歩むうえでいつも自分の弱さを認めましょう、自分のトゲとはなんでしょう、そのトゲをとおしてイエスに出会って、またイエスに力をいただきます。
その力に頼りましょう! そうすれば助けとしてイエスから天国の栄光の冠をいただきます。

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