高齢者向けの 十字架の 道行きの祈り

「わたしについて来た者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」( ルカ 9・23 )
高齢者は色々な小さな十字架 ( 苦しみ ) を担わなければなりません。決して一人ぼっちではなくイエスが同伴者である「キリストはあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されました( 1 ペトロ 2・21 )自分のうちで道行きを祈りましょう。

イエスよ、あなたはピラトの裁判台の上でまったくの一人ぼっちです。寂しい雰囲気・・・私たちも年を取り深い寂しさを経験します。あなたは、この経験がありましたから、私たちを理解してくださいます。あなたは、私たちのそばにおられて友の励ましを与えてくださいます。イエスよ、あなたが同伴者であることを悟らせてください。

私たちは年を取って色々な十字架を担って、ときに限界と束縛を感じます。目も見えにくくなり耳も遠くなります。内臓も弱り、便秘や下痢、尿失禁もあります。ある人は運転が出来なくなり家を出ることが難しくなり、ある人は身体の痛み、ある人は心の痛み・・・イエスと一致して一緒に十字架を担いましょう。

イエスよ、あなたは神様です。人間になって人間の弱さを経験なさいました。本当にあなたは私たちと近い方です。私たちは、体力、記憶力も弱くなって、物を見失うこともよくあります。
イエスよ、人生の道で倒れてもしっかり立ち上がって続ける勇気をお与えください。

イエスよ、あなたは、お母さんに出会いました。私たちは、年を取っても子供の事が心配になります。イエスよ、お母さんにも(お父さんにも)励ましと導きをお与えください。
子供たちのうえにあなたの無条件の愛をそそいでください。そして、マリア様、息子イエスの苦しみの裏側にある愛を教えてください。

イエスよ、
イエスよ、年を取って他の人から世話と助けを受けいれることは時々難しいです。
傲慢か?自由を失うと思うか?
イエスよ、あなたはシモンの助けを喜んで受け入れました。シモンの子供、アレクサンドロとルフォス ( マルコ15・21 ) は、あなたの熱心な弟子になりました。イエスよ、私たちの子供も祝福してください。また、私たちは謙遜に他人の助けを受け入れて微笑みをもって『ありがとう』と言いましょう。イエスよ、助けてください。

あなたの周に厳しい兵隊と侮辱に満ちた長老たち、その批判的な群衆のなかでベロニカという女性は、あなたの血まみれの顔を見て同情と憐れみを感じて勇気をもって出て行き優しくあなたの顔を丁寧に拭いました。
イエスよ、私たち老人は、時々自分を中心にして他の苦しんでいる人に対する憐れみを忘れてしまいます。
イエスよ、私たちにベロニカと同じような憐みの心を与えてください。

イエスよ、あなたは無力を経験しました。私たち老人も力のない感じ、ある時、階段を上ることも椅子から立ち上がることも難しくなります。ある時、リハビリの運動も煩わしく思います。
イエスよ、あなたは私を愛して私たちのためにこの倒れから立ち上がって続けました。本当にあなたは愛に満ちた同伴者です。

イエスよ、あなたは自分の苦しみと痛みをわきにおいて、このお母さんたちに慰めを与えてくださいました。私たち老人は、時々色々な苦しみがあるから、例えば耳が遠くなると自分中心になります。
イエスよ、私たちは自己憐憫を捨てて他の人に思いやり、励まし、勇気づけを与えるように、
ある時、心からの微笑みは人に無言のメッセージを与えます。
イエスよ、あなたの憐みの心を私たちに与えてください。

イエスよ、あなたは本当の人間として疲れも体験しました。私たち老人は、身体の疲れも心の疲れもよくあります。重荷も辛いです。私たちは、あなたのおまねきにこたえたいのです。
「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」( マタイ 11・28 )
イエスよ、あなたのもとに大胆に近づきます。

イエスよ、この場面は、あなたにとって非常に恥ずかしい経験です。
私たちも、ある時、恥ずかしい経験をします。例えば、自分で服を着たり脱いだり出来ないとか、トイレに行くことも出来ずオムツをするようなこともあるでしょう。
イエスよ、私の限界を受け入れるように、他人の世話を謙遜に受け入れるように助けてください。
その人たちに微笑みの『ありがとう』を言いましょう。

イエスよ、その残酷な兵隊たちは、あなたの手と足に釘をうった。
痛みと同時に長老たちはひどいいじめの言葉を言っています。それでもあなたは、「父よ、彼等をお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」( ルカ 23・33 )
イエスよ、ある時、私たちは年を取ってから昔の人間関係からの傷がもう一度浮かんできます。イエスよ、どうしても人を赦す心をお与えください。自分の力ではできないのです。

イエスは、十字架の上で
「父よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」( マタイ 27・46 )と叫びました。
心の空白は人間の経験です。
それなのにあなたは父である神に信頼をおきました。神様の沈黙のようにみえますが…実は、いつもあなたのそばにおられて勇気を与えてくださいます。
あなたといっしょに「父よ、あなたのみ手にわたしの生涯を委ねます」( ルカ 23・44 )私の祈りになるように。

イエスよ、私の大きな死の前にたくさんの小さな死があります。
限界、束縛、出来ないこと、夢が実行できないこと、イエスよ、この小さな十字架をあなたといっしょに担いたいと思います。あなたは私の同伴者である。
イエスよ、手と手をあわせて最後までいっしょに歩みましょう。
神の母聖マリア、私たちのために今も死をむかえるときも祈ってください。

イエスよ、あなたの遺体は死の洞穴に葬られます。その死の洞穴は地球の命になりました。イエスよ、私の同伴者として毎日あなたといっしょに歩みたい。
私の色々な十字架をあなたといっしょに担いたい。あなたの受難は私の励まし、あなたの復活は私の希望になります。
イエスよ、高齢者としての道は私たち一人では駄目です。あなたの助けによって人生の目的地、永遠の幸せ、天国に無事に達するように助けてください。同伴者であるイエス、心からありがとうございます。

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