人間であるイエスに出会いましょう

わたしたちの信仰の中でいちばん根本的な教えはイエスの受肉『托身』です。三位一体である御子は神性をわきにおいてわたしたちの世に降って本当の本当の人間になられました。聖書の言葉では「自分を無にして、人間と同じ者になられました」( フィリピの信徒への手紙 2・7 )
イエスは、わたしたち人間と同じ身体、心、感情、反応をもっていました。
100%神であり同時に100%人間であります。その調和が非常に大事です。イエスの神性を過度に強調しないようにバランスが必要です。イエスの弟子たちは先に人間であるイエスに出会って後に神であるイエスに出会いました。
この記事の中でイエスの人間的な点を考えてみましょう。

1.
イエスの人間的な心は深い悲しみにぶつかると涙を流されました。
わたしたちの神様は泣きました。
例えば、ラザロとマルタとマリアはイエスの愛された親しい友達でした。お兄さんのラザロが亡くなってイエスは彼の墓の前でその姉妹たちと一緒に泣きました。聖書の中の一番短い1節「イエスは涙を流された」( ヨハネ 11・35 )
またある時、イエスは山の上に立ってエルサレムの街を見おろし、これからエルサレムの人々がローマの占領軍と戦うことを考え、エルサレムの人々の悲しみを共に感じて涙を流した。( ルカ 19・41 ) それは空涙ではなく優しい心の底からの涙でした。イエスは本当に慈しみ深い神様です。わたしたち人間と共に感じる方、わたしたちは、いま同じイエスに出会うことが出来ます。

2.
イエスは人間としてわたしたちと同じように寂しさをしみじみ感じました。ナザレの人々は石を投げながらイエスを故郷から追い出しました。その時からイエスは家をもっていませんでした。「人の子には枕する所もない。」( ルカ 9・58 ) このイエスの言葉はさびしい響きでいっぱいです。また12弟子に3年間、自分の救いについて教えられた。政治的な救いではなく霊的な救い。弟子たちは3年の間にイエスの言葉を何回聞いても鈍くてまだまだピンとこなかった。
イエスはさびしくて言った「あなたがたも、まだ悟らないのか。」( マタイ 15・16 )
またある時ゲッセマネの園で悲しんでいるイエスは3人の弟子に一緒に居て欲しいと頼んだがペトロとヨハネとヤコブはぐっすり眠りこんでいた ( ルカ 22・45 )
本当に寂しい場面ですね、わたしたちも寂しさと誤解を感じたら、この寂しさを経験したイエスの所に行きましょう。

3.
イエスは本当の人間としてわたしたちと同じように疲れ、飢え、渇きも感じました。ある時、弟子たちが食物を買いに行っている間、疲れを感じてサマリアの井戸に座っていました。
イエスは、ある女性に水を飲ませてくださいと言われた。イエスはその女性とおもしろい井戸端会議をしました。そして、そのおかげで彼女は平和をいただきました。( ヨハネ 4・1~42 ) イエスは昔も今もいつまでも同じです。わたしたちは、この近づきやすい話しやすいイエスのところに行って祈りの中で自分の言葉で自分の心をさらけ出しましょう、イエスは平和の源です。

4.
ある時、イエスはナインという村に近づくと墓地へ向かう途中の
葬式の行列に会いました。ある未亡人のひとり息子が死んで母親は深い悲しみの中です、イエスはその涙を見るとそのお母さんと共に悲しみを感じ憐れみました。( ルカ 7・11~17 )
イエスは現代のわたしたちに対しても同じように共感してくださいます。

5.
イエスは人の気持ちに対して非常に敏感な方でした。イエスは細かいことに気づき、小さな声も聴きました。例えばヤイロの娘を生き返らせたあと、みんなが大喜びで娘の飢えを忘れてしまった。敏感なイエスは娘に食べ物を与えるように指図された。( ルカ 8・55)
またある時、神殿の献金箱の前に座って大勢の人がたくさんのお金を入れたが、ある貧しいやもめが銅貨2枚を入れるとイエスはそれに気づいて褒めました。(ルカ 21・1~4 )
またある時、エリコに入って大勢の群衆の中、道端に座っていた一人の盲人の物乞いの声を聴き彼の目を治された。( マルコ 10・46~52 )
今、イエスは、わたしたち一人ひとりの細かいことに関心をもって、いつも個人の小さな声にも耳を傾けてくださいます。

6.
イエスの顔は慈しみの鏡のようです。例えば木に登った枝の中にいるザアカイにイエスが優しい顔あげてじっと見つめて「ザアカイ、今日一緒に食事をしよう」その親しい交わりの食事のおかげでザアカイはやっと平和を感じることが出来ました。( ルカ 19・5 )
またペトロが失敗してイエスと全然関係ないと強く否定しているちょうどその時、拷問を受けているイエスが振り向いてベトロをじっと見つめられた。ペトロはそのイエス様の赦しと理解に満ちた顔を見て失敗から立ち上がりました。( ルカ 22・61 )
わたしたちも優しい顔のイエスに出会うことが出来ます。

7.
イエスは人間として強い誘惑を経験しました。( ルカ 4・1~11 )
わたしたちも誘惑に負けそうになったら、誘惑に打ち勝ったイエス様に助けを頼みましょう。

わたしたちの神様は本当の人間性を体験なさいましたから、わたしたちの弱さをよく理解しておられます。イエスの招きにこたえましょう。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
( マタイ 11・28 )

「この大祭司イエスは、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
( ヘブライ人への手紙 4・15~16 )

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