司祭 バリー・ケンズ
2月2日は『主の奉献』の祝日です。典礼の中には11の特別な祝日があり、その祝日が日曜日に当たるとミサの福音に席を譲られます。『主の奉献』はその一つです。
ルカ 2・22~40 の主の奉献の登場人物は5人です。マリア、ヨゼフ、死をむかえるシメオン、84歳のアンナ、そして中心人物は 40日前に生まれた赤ちゃんイエスです。
テーマは奉献です。イエスの生涯は赤ちゃんの時から33年あと十字架の上で息を引き取る最後まで奉献の精神がテーマです。
わたしたちもイエスに従う者の生き方として奉献の精神をテーマにしましょう。信者生活の中で奉献は非常に大切です。わたしたちの信者としての中心は御ミサです。
バチカン公会議の中で典礼憲章10番
「御ミサは信者生活の目指す頂点であり力の泉である」とあります。
そして奉献文に入る前にパンと葡萄酒を供える祈り『このパンと葡萄酒は・・・労働のみのり・・・』『神よ、今日わたしを生贄として受け入れてください」があります。
その祈りは奉献の広い意味をほのめかしています。それは毎日の平凡な出来事も含まれているということです。御ミサの時、祈りと今週中の出来事をいっしょに捧げます。皆さんこれは大事なこと祈りと平凡な出来事は別々のものではないのです。
例えば、その捧げるパンを考えてみましょう。
このパンをつくるためには大勢の人の労働が必要です。まず畑には土と小麦の種が必要、農民は種を買って畑にまく、成長すれば刈入れをして、そのための機械も必要、刈入れた小麦を粉にする作業もある、次はその粉からパンをつくる作業。
このようにたくさんの労働者が必要になります。わたしたちの生活は実際にパンをつくることに携わっていませんが、それぞれの仕事を代表しているのです。結局、そのパンは、すべての人の毎日の生活と関係があるのです。
ですから、御ミサの時 このように祈りましょう「父よ、私はこの御ミサでイエスと一致して今週の出来事をすべてあなたに捧げます」それが奉献です。
もし御ミサにあずかる時このような奉献の気持ちがあれば確かに意味深くなって意義と支えと励ましのある式になります。義務的な心が消えて喜びの時間になります。
もう一度大事なことを繰り返します。わたしたちの祈りの生活と日々の平凡な出来事とは別々ではありません。一緒です、ひとつです。人間は仕切った部分のものではありません。
ですから御ミサにあずかる時は、このような心をもちましょう「イエスよ、わたしの祈り
わたしの ( 会社での仕事、主婦の仕事、引退後の生活、勉強、) の時も、趣味の時、遊びの時も睡眠の時にもお入りください」
御子イエスはこの世での33年間暮らしました。
その中の33年間は隠れた日々の生活、大工の見習いから一人前の大工になりました。
わたしたちの平凡な出来事はイエスの御前に大事なものです。
イエスのお望みは、わたしたちのその生活に入りたいのです。ぜひ招待状を出しましょう!
このようにしたら自分の毎日が素晴らしい味を受けます。

この新子安教会の保護の聖人テレジアの写真を見てください。洗濯をしています! これもイエス様に奉献しているのです。
イエスは十字架の上で亡くなる時、詩編31節を祈りました。その中で「父よ、あなたの御手にわたしの霊を委ねます』( 6節 ) また16節「あなたの手にわたしの生涯を委ねます』これは最後に息を引き取る時の奉献文ではありません。イエスは、お母さんマリアからその詩編とその精神を倣いました。
またもう一つの詩編139
『神よ、あなたのはからいは限りなく生涯わたしはその中に生きる』18節
生涯とはわたしたちの毎日に生き方、その平凡な出来事になります。
今月の心の宿題として次の聖書の箇所をゆっくり読んで祈りましょう!
- ルカ 2・22~40 イエスの奉献
- 詩編31 詩編を書いた人は苦しみの中で神に信頼と希望があります。
- 詩編139 神のはからいは限りなく将来わたしはその中に生きる。
同伴者であるイエスはわたしたちの人生の道を一緒に歩みます。
祈りの時も平凡な出来事の中にもイエスに自分のすべてを捧げましょう!




