キリストの平和の道具 永井隆博士

あゆみ 2020年8-9月号

日本の8月は特別な月だと思います。聖なる月と言いましょうか。8月6日広島で14万5千人、9日長崎で7万4千人が原子爆弾で亡くなりました。その方々の冥福を祈ります。8月15日はマリアの被昇天。またお盆のお墓参りで先祖たちのために祈ります。教会では6日から15日までの平和旬間の間に世界の、日本の、家庭の、個人の中に平和があるように祈ります。そしてちょうどそのころになると蝉の合唱団が聖なる音楽を奏でます。

私は何回も長崎を訪問しました。長崎原爆資料館長崎平和資料館を訪ねると戦争は悪だとしみじみと感じます。絶対に嫌だと本当に定まらない心をもってそこを出ます。けれどそこから永井隆記念館に入ると平安を感じて、そして私もキリストの平和の道具になりたいという気持ちが浮かんできます。私は永井博士の大ファンです。記念館では博士の息子さん 誠一 (まこと) さんが亡くなってからお孫さんの徳三郎さんからあたたかいもてなしを受けました。

永井隆は1908年島根県松江で生まれました。彼が高等学校時代はちょうど無神論が流行していて彼もその一人でした。けれど22歳の時お母さんを亡くして短歌に興味を持ちアララギ支社に入って歌会にも出席していました。母を亡くした時は母の霊魂は永遠に滅びないと直感しました。これが信仰への道の第1歩になりました。またパスカル先生の本を読んで彼が有名な物理学者なのに神様を信じて神様に祈っていたと知りました。そのような経験をして降は自然に無神論者に疑いを感じるようになりました。
その後、隆は長崎の医科大学に通うために森山家に下宿しました。森山家は300年前からカトリック信者でした。隆は、その家の落ち着いた喜びの雰囲気を深く感じ、また近所の浦上教会のお告げの鐘も心に響きました。ある年の12月24日の夜、森山家の娘さんにクリスマスのミサに誘われました。隆はその時のことを後から喜びの雰囲気を感じたと書いています。大学の卒業を前に酷い耳の病気になって聴力が失われ聴診器を使うことできないと放射線科を専門に選びました。

鐘は響き渡る 永井隆記念館 雲南市

医者になってからは日中戦争で軍医中尉として従軍すること2年6ヶ月、中国の北から南まで第一線ばかり72回の戦闘を経験しました。陸は、敵味方の区別なく、診断を考えているしばらくはこの男の国籍は思わず負傷兵や現地住民の救護活動を行った。緑さんは彼のためにウールのセーターを編んで、公教要理の本と一緒に中国の隆のもとへ送りました。
戦争が終わって日本に帰ってから隆の心は非常に落ち着かなかった。そして浦上教会の神父様に自分の気持ちをさらけ出し1934年6月に洗礼を受けました。洗礼名は聖パウロ三木でした。洗礼を受けてから2か月後、森山家の縁さんと結婚しました。そのころの不景気と戦争の苦しみの中でお互いが支え励まし合って本当に幸せな夫婦になりました。4人の子供に恵まれましたが息子の誠一(まこと)と娘の茅乃、他の二人の子供は幼くして亡くなりました。その頃、肺結核が流行っていたのでレントゲンを使う専門医の隆は非常に忙しかった。しかし、家族が集まって一緒に祈りました。
また、毎日の祈りとして聖書の中の詩編やイエスの言葉の1行を選んで忙しさの中でも,そのみ言葉をあじわいました。また「ロザリオは私のポケットの中の聖堂です」と言っていました。

娘の茅乃は、とても美しい女性で以前テレビのインタビューでお父さんについて話していました。たとえば「良いものがあったら、いつもわかち合いましょう。大きなイモと小さなイモがあったら、大きなイモを他人にあげなさい」と言われたこと。「この世の中にはいろんな性格の人、色々な考え方の人がいます、受け入れなさい」と。それは自分が長崎から関西に移った時に全くその通りだと思ったそうです。お父さんは疲れと忙しさの中でも他人の悩みと心のうちをよく聴いていた、また、その患者さんがいつも良い気持ちをもって自分の家に帰るように努めていたこと。

1945年8月9日11時2分長崎の上に原子爆弾が落ちました。隆の勤める病院の患者さんとスタッフの80%は亡くなりました。隆自身も負傷しましたが臨時の野外診療所造りました。それから自宅に帰るとそこには妻の緑さんの焼け焦げた骨と彼女の口ザリオだけでした。非常に悲しい経験でした。

私は永井隆記念館を訪れると凝結されたロザリオの前に止まって緑さんに感謝して祈ります。永井博士が立派な人間になったことは緑さんのおかげだと思います。隆はレントゲンを使う仕事のうえに原爆の灰をあびて白血病になり余命3年と言われました。最後の3年間は病気で子供二人と一緒に2畳一間の小さな家で暮らしました。その家を如己堂と言い「如己愛人』からとりました。これはマタイ福音書1919「隣人を自分のように愛しなさい」という意味です。永井博士は1951年5月1日43歳で亡くなるまで色々な手紙や筆で色紙に絵を描いたり、世界平和についての書物もたくさん書きました。「原子爆弾は長崎でおしまい ! 平和は長崎から !」

世界の平和はわたしたちの家庭から始まります、永井博士は自分を中心にしないでいつも他の人を第一に考えた。ですからイエスからの平和を感じました。私にとって永井博士はアシジのフランシスコの平和の祈りの模範です。


平和の祈り

神よわたしをあなたの平和の道具に用いてください
憎しみのあるところに愛を
争いのあるところに和解を
分裂のあるところに一致を
疑いのあるところに真実を
絶望のあるところに希望を
悲しみのあるところに喜びを

暗闇のあるところに光をもたらすことが出来ますように助け導いてください
神よわたしに慰められることよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されることよりも愛することを望ませてください
わたしたちは与えることによって与えられ
すすんで許すことによって許され
人のために命を捧げることによって永遠に生きることが出来るからです

Related articles

Recent articles

イエスは復活して今生きておられます

あゆみ 2025年 5月号 バリー・ケンズ神父 イエスの受難は私たちのため励ましになります。イエ …

四旬節

あゆみ 2025年 4月号 バリー・ケンズ神父 今年は3月12日の灰の水曜日から4月22日の復活 …

希望の巡礼者

あゆみ 2025年 3月号 バリー・ケンズ神父 希望の巡礼者の道の『希望』は神様からの贈り物です …

聖年

あゆみ 2025年2月号 バリー・ケンズ神父 今年2025年は教会で聖年と呼びます。カトリック教 …