日本人の殉教者たち

2月3日は福者高山右近の祝い日です。
福者といいますと教皇様が正式に「彼は聖人だ」と宣言する前の段階です。右近は戦国時代の大和国(奈良県宇陀郡)沢城主高山智照の長男でした。
1552年2月3日に生まれて12歳の時にお父さんと一緒に洗礼を受けました。最初は熱心でしたが青年時代には信仰の道に迷いもありました。成人になり刀を持ち侍となって戦いの中で重傷を負い生死のさまよい中で自分の信仰について考え神の愛の偉大さ、福音を理解し再び熱心な信者になりました。

1574年に結婚し息子3人(2人は子供の時に亡くなった)と1人の娘がいました。そして右近は高槻の大名になりました。
1587年豊臣秀吉は急にカトリック教会に反対し外国からの宣教師は日本から出ていくようにと、またキリシタン大名には信仰を捨てるようにと命令しました。
この命令を聞くと右近は信仰を捨てるよりも自分の権威や名誉、領土もすべての持ち物を捨てますと言いました。右近は高槻で非常に人気のある大名でしたから引きとめようとする友人や家来たちもたくさんいました。その後、右近は織田信長の力ある武将だった加賀の大名前田利家のもとで25年間保護されていました。その間、高槻から始まり明石、金沢、能登と宣教活動をしてまわり教会を誕生させ共同体を成長させました。
しかし1614年に徳川家康はキリスト教信者に対してもっと酷い迫害をしました。
そして右近もその年の9月に家康から島流しの刑を受けました。
1614年11月8日、右近はすべてを捨ててわずかな書物以外持ち物もなく、300人以上の信者と一緒に長崎からフィリピンのマニラに島流しになりました。彼らの乗った船はとても古くて小さかったのにその300人以上の人々がすし詰めのように押し込まれました。
途中、大きな時化に遭い沈没しそうになりながら、ようやく33日目にフィリピンに到着しました。

マニラでは非常に温かいもてなしを受けましたが到着後、慣れない気候風土、食べ物に苦労し高熱を出し40日目に亡くなりました。
日本を出る前にもひどい侮辱を受け、劣悪な環境の苦しい船旅を経験した右近を日本の司教様たちは殉教者と決めました。
右近は現代の私たちのために模範と励ましです。
右近は大事な選択をしました。この世の名誉と持ち物を選ぶか、その代わりにイエスの示された道を歩むか。右近はイエスの道を選んだ。それは深い信仰をもって歩む天国への永遠の幸せの道。右近の模範を考えてイエスの導きと力を願って右近と同じ道を選んで歩みましょう。


2月5日は日本の26殉教者の祝い日です。
1597年秀吉の命令で京都と大阪でとらわれたキリシタン達は耳たぶを切られ冬の酷い寒さの中を京都から長崎まで歩かされました。この非常に苦しい旅路は800キロ28日間かかりました。その年の冬は極寒でした。
途中で看守の兵隊からも、ある人からも侮辱を受けました。ある人は26人の勇気と喜びと励ましの一致を見て感心してキリスト教の偉大さを考えました。26人の中20人は日本人、4人はスペイン人、1人はメキシコ人、1人はポルトガル人、カトリック教会の国際化を示しました。そして26人のうち3人は男の子でした。
第1はルドビコ茨木12歳、ある偉い人はルドビコの喜びと勇気を見て彼に「私の家に入りなさい」と言いました。
若いルドビコは「わたしはイエスの家の者です」(高山右近の選択と似ています)
第2はアントニオ13歳、彼のお父さんは中国人、お母さんは日本人。彼は十字架からお母さんの涙を見て慰めと励ましを与えました。
第3はトマス小崎14歳、京都のフランシスコ会の教会で侍者でした。お父さんも26人の中にいました。旅路の途中でお母さんに手紙を書きました。その血まみれに手紙は後でお父さんの袖の中で見つかりました。その手紙がこれです。

『母上様、主イエスのお恵みに助けられながら、この手紙をしたためます。罪標にしるされている宣告文にありますとおり、私たち神父様以下26名の者は、長崎で十字架につけられるようになっています。どうか私のことも、父上ミカエルのことも何一つご心配なさらないでください。天国で母上様のお出でをお待ち申しております。この世のすべては夢のごとく消え失せてしまうことを思い、天国の幸福をゆめゆめ失うことのないようにお心がけください。人が母上にいかなることをしようとも、忍耐し、かつすべての人に多くの愛をお示しください。それからとりわけ弟マンシオとフィリボに関しては、かれら二人を異教徒の手に委ねることのないように、よろしくお取り計らいください。安芸国三原の牢獄より。』

26人は長崎の死刑場につくと首と手足を十字架に鎖で結わきつけられました。フランシスコ会のペトロ神父は26人の代表として十字架から兵隊たちを赦しました。26人は聖歌を歌いながら、兵隊達は26人の胸に槍を刺しました。(現在、死刑場の山は長崎の駅に近い教会の十字架がそびえたっています。)
この26人は自分の信仰はこの世で一番大事な宝物と思っていました。持ち物や名誉より大事だと思ったのです。そして傍観者はみんなの信仰の喜びの顔を見て非常に感心しました。その苦しい旅路と十字架の上でもお互いに励ましあいました。また皆は死からの天国(パライソ)を永遠の幸せを待ち望みました。
日本の26殉教者は私たちのため模範です。
私たちのこの世で一番大事なものは何でしょう?
日本の26殉教者は私たちのため模範です。

Recent articles

イエスは復活して今生きておられます

あゆみ 2025年 5月号 バリー・ケンズ神父 イエスの受難は私たちのため励ましになります。イエ …

四旬節

あゆみ 2025年 4月号 バリー・ケンズ神父 今年は3月12日の灰の水曜日から4月22日の復活 …

希望の巡礼者

あゆみ 2025年 3月号 バリー・ケンズ神父 希望の巡礼者の道の『希望』は神様からの贈り物です …

聖年

あゆみ 2025年2月号 バリー・ケンズ神父 今年2025年は教会で聖年と呼びます。カトリック教 …