永井隆と緑

あゆみ 2023年12月号

先週、新子安教会の図書に新しく2冊の本が入りました。永井隆全集 IとIV (2023サンパウロ) です。そのうちの一つ永井隆全集 IVを1階のテーブルの上に置いておくので皆さん読んでください。

その本に載っている美しい絵や習字、写真を通して彼の青春をあじわうことができます。
私は永井隆の大ファンです。私が初めて長崎に行った時は横浜教区の進礼グループと一緒でした。
ちょうどフランシスコザビエル来日 400年の記念の年でした。
巡礼のリーダーは梅村司教様、同行司祭は鵜飼神父様、市岡神父様と私でした。その時の私の経験をお話しします。

最初に訪れた原爆記念館を見学して私は怒りと戦争に対しての嫌悪感でいっぱいでした。
そのあと如己堂とその裏にある永井隆記念館に行き、永井隆の息子の誠 (まこと) さんに温かいもてなしと説明を受けました。そして、その雰囲気をあじわって私の怒りと嫌悪感の心は平安に入りました。

如己堂は2畳ほどの小さな家で永井隆とその子供2人が3年間生活していました。
記念館に入ると原爆に関する色々な絵と展示物がありました。中でも一番印象的だったのは永井隆の奥さん緑さんのロザリオでした。彼女は原爆で亡くなり遺骸の側にあったそのロザリオは原爆の熱でけて塊になっていました。
私は帰ってから永井隆の生涯について研究しました。彼の書物の中には緑さんが何回も出ていました.たとえば「毎日、私が病院に出勤するとき、緑はいつも美しい微笑で送り出してくれました」
その微笑は一日の忙しさの中で彼の支えになったと思います。
若い永井隆は長崎大学の医学部に入るために島根県から出てきて下宿したのが後に妻となる緑の森山家でした。その頃の隆は他の大勢の学生と同じように神様を信じていませんでした。
あるクリスマスの夜、森山家に帰省していた緑に真夜中のごミサに一緒に行きましょうと誘われました。この時、隆がキリスト教と出会う最初の経験でした。
彼にとって浦上教会の印象は深く大きな影響を受けました。その後、彼は教会の鐘の音を聞くといつも響きがありました。
隆は医学部を卒業し軍医として満州事変に従軍しました。緑は隆のためにブルーのセーターを編んでカトリック教会のハンドブックを添えて満州に送りました。

満州から帰ってきた隆は精神的に非常に苦しんで浦上教会の司祭にその心のすべてを打ち明けました.洗礼の準備をして受洗しました。洗礼名はパウロ三木でした。
そのあと緑と見合いをしました。彼は緑に「私は放射線科の医師なので命は短い」と言いました。緑は隆をありのままに受け入れました。この二人は本当に美しい愛に満ちたお互いを助け合うチームでした。

二人の間のキーワードは「わかちあい」です。
子供が4人産まれましたが2人は赤ちゃんのうちに亡くなりました。隆と緑は二人で一緒にその悲しみ、苦しみを乗り越えました。成長した二人の子供は長女、茅乃と長男、誠一(まこと)です。
隆と緑は毎晩祈りました。緑は浦上教会の婦人会のメンバーで隆は医者として貧しい人たちを無料で診しました。当時は病気をしていることを知られるのが恥ずかしいと思う人が多く彼はそのような人たちに対して尊敬の心が大事だと言いました。
その頃、肺結核が流行っていては放射線科の医師として非常に忙しかった。
そんな忙しさの中でも彼は素晴らしい習慣を行っていました。それは聖書からある言葉を選んで1日中その言葉を思い浮かべてあじわいました。
原爆が投下される3か月前のある夜、隆は緑に自分が白血病で余命3年だと伝えました。
その時の緑の様子を隆はこのように書いていました。
「緑はそれを聞いて赤ちゃんを抱いて最初に沈黙、そして祈り、そして彼女は『命も死も私たちは神様のものです」と言った。」
彼は緑のおかげで将来のため励ましと勇気と希望をあじわった。この二人のわかちあいは模範の一つの例だと思います。

1945年 8月 9日11時 2分長崎に原爆が投下されました。
隆は病院で傷だらけでしたが緑は亡くなりました。
隆が全壊した家に帰えるとそこには緑の遺骸と側にロザリオがありました。
私は2回目に長崎を訪ねた時にも如己堂と裏の記念館に行きました。その時は永井隆のお孫さんの徳三郎さんからお父さんと同じような温かいもてなしを受けました。
私は記念館に入ると緑さんのロザリオの前に長く立って彼女のために神様に感謝を捧げました。
そして緑さんにも感謝、彼女の優しい導き、温かい励ましと支え、また、深い愛と信仰に感謝しました。
緑さんのおかげで隆は家庭の中に平和を経験した
そのあと、その経験をもって彼は平和の道具になった、彼の側にはいつも緑さんがいたのだと感じました。
隆の最後の5年間は寝たきりでした。深い信仰をもってこの十字架を担いました。またこの5年間の間に小説、詩、絵、習字と作品を残しました。その全部が紹介した本に載っています。

隆は1951年43歳で亡くなりました。最後の言葉は「イエス、マリア、ヨゼフよ、あなたの手に命をゆだねます」と。緑さんは原爆の雲の上に乗り天国に上った、その酷く苦しい間にも微笑みでした、彼は緑さんからそれを習ったと思います。

皆さん、長崎に行ったらその永井隆記念館をぜひ訪ねてください。そしてそのロザリオを見る時に緑さんを思い出してください。隆さんと緑さんの足跡を踏んでイエス様の平和の道具になりましょう。
主の平和。

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