二人の間のキーワードは「わかちあい」です。
子供が4人産まれましたが2人は赤ちゃんのうちに亡くなりました。隆と緑は二人で一緒にその悲しみ、苦しみを乗り越えました。成長した二人の子供は長女、茅乃と長男、誠一(まこと)です。
隆と緑は毎晩祈りました。緑は浦上教会の婦人会のメンバーで隆は医者として貧しい人たちを無料で診しました。当時は病気をしていることを知られるのが恥ずかしいと思う人が多く彼はそのような人たちに対して尊敬の心が大事だと言いました。
その頃、肺結核が流行っていては放射線科の医師として非常に忙しかった。
そんな忙しさの中でも彼は素晴らしい習慣を行っていました。それは聖書からある言葉を選んで1日中その言葉を思い浮かべてあじわいました。
原爆が投下される3か月前のある夜、隆は緑に自分が白血病で余命3年だと伝えました。
その時の緑の様子を隆はこのように書いていました。
「緑はそれを聞いて赤ちゃんを抱いて最初に沈黙、そして祈り、そして彼女は『命も死も私たちは神様のものです」と言った。」
彼は緑のおかげで将来のため励ましと勇気と希望をあじわった。この二人のわかちあいは模範の一つの例だと思います。
1945年 8月 9日11時 2分長崎に原爆が投下されました。
隆は病院で傷だらけでしたが緑は亡くなりました。
隆が全壊した家に帰えるとそこには緑の遺骸と側にロザリオがありました。
私は2回目に長崎を訪ねた時にも如己堂と裏の記念館に行きました。その時は永井隆のお孫さんの徳三郎さんからお父さんと同じような温かいもてなしを受けました。
私は記念館に入ると緑さんのロザリオの前に長く立って彼女のために神様に感謝を捧げました。
そして緑さんにも感謝、彼女の優しい導き、温かい励ましと支え、また、深い愛と信仰に感謝しました。
緑さんのおかげで隆は家庭の中に平和を経験した
そのあと、その経験をもって彼は平和の道具になった、彼の側にはいつも緑さんがいたのだと感じました。
隆の最後の5年間は寝たきりでした。深い信仰をもってこの十字架を担いました。またこの5年間の間に小説、詩、絵、習字と作品を残しました。その全部が紹介した本に載っています。