あゆみ 2024年10月号
バリー・ケンズ神父

聖テレジアは新子安教会の保護の聖人です。
その意味とは彼女は新子安共同体のために天国で祈っています。10月 6日のごミサでテレジア祭を祝います。
皆さん左のイラストを見てください。テレジアが洗濯をしています、洗濯は平凡な日常の仕事ですがテレジアはイエス様と一緒にイエス様のためにしました。
この『一緒に』『ために』がキーワードです。同じようにテレジアは掃除、食事、人間関係、祈りと苦しみをイエス様と一緒に、イエス様のために捧げました。
もちろんこの小さなことをするたびにイエス様のことをいつも考えることはできません。
けれど、毎朝小さな祈りの中で「イエスよ、今日起こるすべてのことをあなたと一緒にあなたのために捧げます。」これがテレジアの朝の奉献です。
これをテレジアの『小さな道』と呼びます。そして、それはテレジアのために影響がありました。

たとえば洗濯をするとき隣に居たシスターは元気が良すぎてザブザブと洗うたびに石鹸水をかけられてしまいました。
けれどもテレジアはそのシスターに微笑むだけでした。
そして、テレジアの受け持ちである薄暗い廊下を掃除するときにも苦手な蜘蛛がいたら「イエス様見守ってください」と祈りました。食事の時にテレジアのお皿には美味しくない料理がのせられました。なぜならばテレジアは不満を言わなかったからです。
またある時には静かな祈りの場で高齢のシスターが口の中で異音をさせてテレジアがその音にストレスを感じても、そのシスターに微笑むだけでした。
苦しみの時にもイエス様と一緒にイエス様のために捧げました。
たとえば、お父さんが精神的な病気になって精神病院に入院させられた時には非常に悲しかった。その時代はとても恥ずかしいことでした。それは日本でも同じでした。「キチガイ」「左巻き」などと言われて疎外されていました。
イエスは「わたしは道である」と言われました。テレジアは「小さい道」という言葉を使いました。もちろん同じ意味ですが、テレジアの「小さい」という意味は「やさしい」誰にでも歩むことができる道ということです。
その頃、フランスでは「ジャンセンイズム」という異端な教えが流行っていました。
その教えは厳しい、愛よりも責任を強調し、また天国よりも地獄を強調した。節制も厳しくご聖体は聖なる者のためだけにでした。しかしテレジアはそのような道は私のためではないと聖書をよく読んで祈り優しいイエスに出会いました。そしてテレジアは信仰の喜びの模範でした。
修道院の中でテレジアはシスターたちに物語を話すとき、その登場人物になり切った声で話しました。
また、シスターたちのために時 ( ポエム ) を作りました。

ある時、修道院長の霊名の聖人の祝い日にその聖人「ジャンヌ・ダルクの生涯」の脚本を書き劇もしました。テレジアは自分で衣装を作り主人公を演じました。
テレジアはたくさんの才能をもっていました。それもイエス様と一緒にイエス様のために捧げました。
それでもテレジアはとても謙遜でした。
テレジアは父なる神様の子供をよく考えて、たとえば祈りの途中で居眠りをしたら、父は眠っている子供も愛しますと。また、イエスとの交わりは友情でした、友だちと友だちの普通に厳しくない優しい絆です。この道は私たちのためにとても良いと思います。
テレジアの聖書の大事な個所は
「イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて言われた。あなたがたも子供たちのようになりなさい」(マタイ18・1~5)
子供の特徴は両親への信頼です。優しい心でイエス様と親しい交わり、絆、父なる神様に子供のように信頼の心をもって毎日の生活をしなさいという意味です。
私たちは新子安の者として聖テレジアの「やさしい道」のやり方を考えましょう。
聖テレジアのお姉さんセリーンはテレジアと同じ修道会に入る前にカメラと写真の趣味がありました。修道院に入った時にカメラを持ってきたのでテレジアの写真がいっぱいあります。テレジアが劇で演じたジャンヌ・ダルクの写真もお姉さんのセリーンが撮りました。