聖書:イザヤ50:4-7、詩篇22、フィリピ2:6-11、ルカ23:1-49
今日、私たちは、特別な時間を作って、イエス様の十字架の苦しみと、その裏の意味、それが現代の私たち一人ひとりにとってどのような意味を持つのかを考えましょう。
イエス様の受難を大昔の漠然としたものと思わないでください!そして、イエスの身体と心のさまざまな苦しみを考えるとき、いつもその苦しみの背後にある「愛」を考えましょう。私たちも聖パウロと一緒に、「イエスは私を愛し、私のためにご自身を捧げられた」と言いましょう。 ガラテヤ2:20

遠藤周作さんの『イエスの生涯』で、私にとって特別なのは次の言葉です。
「イエスはその不安と闘っておられた。永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分がもっともみじめな形で死なねばならなかった。人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった。もしそうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみを分かち合うことができぬからである。人間にむかって、ごらん、わたしがそばにいる。わたしもあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだのだ、と言えぬからである。人間にむかって、あなたの悲しみは私にはわかる。なぜなら私もそれを味わったからと言えぬからである。」
『イエスの生涯』第10章 逮捕の夜より。
イエス様は身体を鞭で打たれ、頭にはいばらの冠がかぶせられ、そのとげが皮膚に刺さりました。兵士たちやユダヤ教の長老たちは、イエス様に唾を吐きかけて侮辱したり、嫌がらせの言葉をかけたりと、最低のいじめをしました。しかし、いつもイエス様の経験された孤独と寂しさを考えましょう。ユダはお金のためにイエス様を裏切り、12人の使徒の頭に選ばれたペテロは、イエス様との関係を3回否定しました。これらはイエス様の心の傷になりました。
イエス様は人間性を体験なさいましたから、その言葉は意味深いものとなります。
「苦しみに疲れ、打ちひしがれている者は皆、わたしのもとに来なさい。励ましてあげよう。」 マタイ11:28