聖書:サムエル記上26:2-23; 詩篇103; コリント15:45-49; ルカ6:27-38
敵を愛し あなた方を憎む者に親切にしなさい 侮辱する者のために祈りなさい

「敵を愛しなさい」これは、多分イエスの道において、従うのに一番難しい道しるべです!
けれど、この道しるべは、イエスが私達にどうしても悟らせなければならないことなのです。例えば、「愛」というのは、素晴らしい、温かい感情を意味していません。この愛は彼や彼女を一人の人間としてありのままに受け入れる、その人がたとえ自分を傷つける人であったとしても受け入れるということを意味しています。そうです、このような愛は難しい、多分私達は不可能だと考えるでしょう。そうです、人間だけの力では出来ません。
イエスがここで使っている「敵」という言葉は、単に自分を嫌ったり、傷つける人というだけではなく、自分が好きでない人、「好きなタイプではない人」、あるいは、自分に対して悪口を言う人です。ですから、敵という言葉には非常に広い意味があります。
具体的な例が参考になるかも知れません。これは私自身の経験です。私がある教区でとても若い、助任司祭だった時、その教区司祭はワンマンな人でした、ほとんど独裁者でした! 私達二人の助任司祭は、ひどい扱いを受けていました。教区の知らせについても、何も分かち合いがありませんでした。私はその冷たく、見下した態度に非常に傷つきました。
私は15年の間、恨みとしてこの傷を抱えていました。私がこの傷を忘れようと思っても、疲れた時やストレスがある時に、目の前に浮かんできました。心の癌のようでした。私は「主の祈り」を唱える時、痛みを感じていました。「父よ、私達の罪をおゆるし下さい。私達も人をゆるします。」
そしてやっと、私は彼の墓を訪ねました。私は自分の人間的な努力だけでは彼を赦すことが出来ないと分かっていました。私は彼の墓の前で祈りました。そして主が私を導いて下さったのです。私はその教区司祭が、自信がなかったのだということが分かって来ました。彼は家庭の中で長男でした。彼は従うように命令を出すことがよくあったのです。私は彼のありのままの姿がやっと分かりました。彼の性格や家庭的な背景を理解しました。理解することは赦しの最初の一歩です。私は共同墓地を、自由な人間となって離れました。
大きな重荷が私の心から解き放たれました。「私は神様の助けによって、あなたを赦します。」と、言うことが出来ました。そして、私は心からその意味を考えました。
神様は私達全ての者の上に、愛と慈しみを注いでくださいます。私達の神様は赦す神様です。神様が私達を赦して下さっているのですから、きっと私達は人を赦すことによって、神様に感謝することが出来ます。
十字架の道行きの中で、第11留は私にとって特別です。イエスは、残酷な兵隊たちによって十字架に釘付けにされます。そしてまた同時に、長老達もイエスに侮辱を与えます。この痛みと苦しみの中で、イエスは感じて祈ります。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているか分からないのです。」
この方こそが、人を赦すことが出来ますようにと、その恵みを願って私達が祈るイエス様なのです。